| ―現代語学塾の活動より― |
|
|
「原田京子さんの韓国ボランティア体験を聞く会」より (2005年3月12日) 韓国ボランティア体験記 「コットンネ」と「光明愛の家」での活動を中心に 原田京子(はらだ・きょうこ:現代語学塾塾生) ●本文は、2005年3月12日に現代語学塾において開かれた小講座の講演録です。長文なので、本ページでは一部を抜粋、編集して掲載しました。全文は、現代語学塾塾報「クルパン」第31号に収録しております。 | |
![]() |
![]() |
◆韓国へボランティアとして行くようになったいきさつ◆ 大学卒業後、最初は福祉事務所のケースワーカーになりました。その中で印象深かったことは、初めて在日の方を担当した時に、身の上話を聞きました。崔さんという一世の方でした。日本に渡って来て炭坑で働かされ、それが元で病気になった、という話を聞いて、改めて日本の悪行を思い知りました。そして、崔さんに「申し訳ないです」とお詫びをしました。在日の方に直接お詫びをしたというのはそれが初めての経験でした。
◆コットンネへ◆その後、どうしても社会科の教員になりたいと思って、中学校の教員に転職しました。歴史とかアジア関係、朝鮮関係について一生懸命授業した記憶があります。その中で朴慶植さんの『朝鮮人強制連行の記録』という本は何度読んだか分からないくらい読み、参考にさせていただきました。たまたま学校のすぐ近くに朝鮮の第7初中級学校がありましたので、生徒たちの交流をしたいと、先方に電話をしました。ぜひ来てくださいということだったんですが、校長に話したら「とんでもない。即、断わりなさい」と言われて、その計画が駄目になりました。先方には大変申し訳なく思いました。 その後、私は障害児の学校に転勤しました。それまで11年あまり中学の教員をやって来たのですが、自分で何もすることができず、ただ寝たままでいる障害の重いこども達を目の当りにして自分が教員としてはどうしてよいかも分からず、なす術もない無力さをつくづく感じました。そして、先輩達に教えられながら適切な働きかけをすると、その子どもたち一人ひとりが、一生懸命に応えようとしてくれることに気づきました。こども達の気持ちや生きている力に圧倒されました。どんなに障害の重い子どもでも障害のあるなしにかかわらず、みんな人間として同じだということを実感しました。その後、養護学校に移りました。この間、一人ひとりの人間の大切さ(尊厳)についてつくづく教えられた時代です。障害児の学校にちょうど20年在職して定年退職を迎えました。 もう一つ、キリスト教無教会も韓国へ行くきっかけになりました。 そして時代は40年ほど経ちます。私が参加している聖書集会で先生に「定年後、韓国でお詫びのための何かをしたいけれど、どこか適当なところを紹介していただけないか」とお願いしました。早速、先生から韓国の無教会の先生を紹介してもらったのですが、その方が紹介してくださった所がコットンネだったのです。 夫が1997年に癌で突然亡くなってしまったんですね。私は夫が亡くなったことで深い悲しみに沈んでいました。うつろな気持ちで過ごすうちに「そうだ。朝鮮語を勉強しよう」と思いついて門を叩いたのがこの塾だったのです。夫が5月に亡くなりまして、その年の10月から初級1クラスに入れていただきました。このことばを勉強することが大変な喜びになりました。そして一生懸命勉強しました。 2002年の3月に定年退職を迎えるのですが、無教会の先生にコットンネを紹介していただいて、その年の1月に下見に行きました。そして、退職後5月から行けるように準備を整えました。 私が仕事をすることになったところはコットンネ聖母の家というところで、障害のある子どもの孤児院です。全員が何らかの形で捨てられた子どもで、障害があります。孤児院の隣りにコットンネ学校という障害児だけが行く養護学校も建てられています。聖母の家には3歳から18歳までのいろいろな障害のある子ども達が100人くらいいます。その中には、自分のことは自分でできる障害のとても軽い子どもから、かなり重度の子どもまでいて、そのうちの比較的軽い子どもはコットンネ学校に通っています。聖母の家と養護学校は、コットンネの本部から車で1時間くらい離れたところにありました。養護学校は60人くらいの子どもに、先生が校長、教頭も含めて11人しかいません。1クラスにいろいろな障害の子どもがいるのに、10人くらいを教員一人で担当するので、びっくりしました。 次に、私はそこでどんな仕事をしていたのか、お話しします。聖母の家は孤児院で100人くらいの子どもが7つの部屋に分かれて生活しています。男女別で、割合障害別になっているのですが、職員が少ないんですね。正規の職員は何人いるか良く分かりません。10人か20人くらいという感じです。職員とボランティアの区別がつかないようなベテランのボランティアもいました。それから、修道女と修道士も職員として働いていましたから、人件費が職員だけだとしたら随分安くすむのかなあと思いました。 私は、聖母の家から歩くと2時間くらい、車だと30分くらいのところにある職員アパートに住んでいました。朝8時に同じ職場の人の車で送ってもらい、帰りは6時くらいのバスで帰って来ました。その間、休み時間がないというか、いつ、どこで休んだらよいか分からず、ほとんど休みませんでした。そこで働かせてもらうだけでも嬉しくて一生懸命にお手伝いをしました。 はじめ予定していた1年が瞬く間に過ぎてしまいました。ずいぶん引き留められて別れが辛かったのですが、紹介してくれた先生に「他の施設も経験した方がいいのではないか」と言われてお別れすることにしました。 | |
![]() |
![]() |
◆光明(クァンミョン)愛の家での活動◆ 次に行ったところが、光明愛の家というところです。そこも無教会の先生が紹介してくれました。ソウル市のすぐ隣りにある、光明市にあります。地下鉄の7号線で光明という駅から歩くと1時間くらいの都市部ですが、ソウルの近くにしては、トドク山という山がすぐそばに迫っていて、その山の麓です。そこはプロテスタントの牧師が運営しているのですが、その牧師さんも障害者なんです。リューマチがもとで手足がちょっと不自由になられたという方です。その方と奥さんが1987年9月に10人あまりで出発したそうです。障害のある人達が何人も共同生活をすることに、なかなか地域の人達の理解が得られず、大変辛い思いをしながら何度も追われるようにして場所を変えたそうです。今の場所に落ち着くまで15年の間に10数回も転居したといいます。暮らしている方は大人ばかりで、一番上は100歳のおばあさんです。おばあさんが6人いらっしゃるのですけど、主に精神遅滞の方達の施設です。今までは子ども達との暮らししか経験がなかったので、大人との暮らしをどうしたらよいのか少し案じていました。
◆福祉に関するお国事情─歴史的文化的背景について◆運営費は政府からほとんどもらえなくて寄付でまかなっているそうでした。いろいろな教会団体からの寄付や全国の人達から寄付を貰えるようにと運動を沢山していました。右上の写真をご覧になればお分かりいただけると思いますが、立派な建物が全部寄付金で建てられたそうです。レジュメに日課が書いてありますが、私はここに住み込んで手伝いをすることになりました。夜もここの人達と同じ部屋で一緒に寝ました。寝ていても誰かが「痛-い」と泣き声をあげたり、何かことが起こると、飛び起きて行く必要があります。24時間、自分ひとりになれる場がないという経験は初めてで、慣れないこともあって、緊張して落ち着けませんでした。ここで長いこと勤められるだろうかと、心配ばかりしていました。けれども、そのうちにここでの生活にも慣れて来て住み心地が良くなってくるのですが、これが韓国式なのかなと思えるようになりました。 植民地支配が終わって朝鮮戦争、李承晩の時代、その後の朴正煕の軍事政権、とにかく朝鮮、韓国は本当に貧しかったようです。日本も貧しかったですが、朝鮮戦争のお陰で日本はすぐ息を吹き返して豊かになってしまいました。あちらは植民地支配を受けて零からの出発で、その後の朝鮮戦争で零以下のマイナスになってしまった時代があったということです。それからの出発ですから、福祉なんていうのはなかなか目がいかなかったと思います。そんな軍事政権の中で日韓条約を結び、日本からのお金をあてにして、何もない韓国に是が非でも産業を起こさなくちゃいけないと企業を優遇したというのが、すこし分かるような気がしてきました。まず経済開発を進め、その妨げにならない程度の福祉だったんですね。ですから究極に貧しい人のためだけの福祉で、福祉どころではなかったようです。
◆福祉に対する考え方の変化◆それにもう一つ、韓国は儒教の国ですから孝の精神がすごく発達していて親を看るのは子どもの責任であって、どんなに貧しくても親の面倒をみるのがずっと最近まで当然のこととして考えられてきました。家庭が、家族が親や障害者の面倒をみるという考えがあって、どうしても駄目な時に初めて社会福祉という考えでしたから、あまり社会保障がなくても文句は出なかった、という話も聞いています。まず企業優先で、福祉予算がなくてもあまり政府が追及されなかったそうです。 先日、「韓国で福祉が遅れた理由を儒教の精神が強かったからなの?」と親しくしている友達に聞いてみました。そしたら、「そんなことないわよ、権力者達の政治だからいけないんだ」と言われました。「国民所得が1万ドル以上ある国で障害者にこんなに冷たい国は韓国以外にないよ。権力を持っている政治家や学者、公務員達が自分達の利権のために国を動かしているからよ」と言われました。儒教の孝を大事にする精神だけじゃないと。 そういう背景もあって新しく盧武鉉大統領を生むことになったのかも知れませんが、最近考え方がどんどん変わってきていることも感じていました。朝鮮戦争の後、60年代以降、韓国は急激な工業化・都市化が進み、田舎から都市へ人が集まって来て、地方に残っているのは老人で、三世代以上の家族が少なくなってきました。韓国の平均寿命が今伸びて、韓国社会が急速に変化しています。男性が71歳、女性が78歳で、アジアの中では日本に次ぐ長寿国です。65歳以上の人口がこれから後もうちょっとしたら爆発的に増えてくるそうです。 自分の老後は子ども(長男)が看るべきだと思って、子どもを育てるためにすべてを犠牲にして、なけなしのお金を教育費として捧げてきた親達ですら、子どもが看るべきだという人が減ってきているほど、世の意識が変わって来ているのです。 | |
| 活動レポートTOPに戻る |
*Published by GENDAIGOGAKUJUKU 1998 *All Rights Reserved 禁無断転載